未来になれなかったすべての夜に・本編

【この記事は7月5日、amazarashi 未来になれなかったすべての夜に のセトリ、演出のネタバレを含みます。 敬称略。また、記憶が正確でないかもしれません。】

 

おしまいです。めでたしめでたしでは無いかもしれないけど、どうしようもなかった夜は、ここで一旦終いです。これはそういうライブでした。

 

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暗転した劇場が、真っ赤なライトと、純白のスクリーンに彩られる。

まず会場に響き渡るのは『後期衝動』。――青森から来ました!amazarashiです!

自然と広角が釣り上がる。これが、amazarashのライブか。ぶち抜かれるというか、射止められるというか。僕らはここに、これまでの夜と対峙しに来たのだと、実感させられる。

 

続くのは『リビングデッド』。前回のライブ、新言語秩序をなぞるようで、行かなかった僕にはありがたい。スクリーンに映し出される言葉が、歌とともに心に突き刺さってくる。

「正しさを求めているならば 少なくとも居場所はここじゃないぜ」

そう。正道を通って来たわけではない。正しくはいられなかった。だからこそ、ここにいるんだと、それは秋田ひろむが自分自身に言い聞かせているようでもあったし、僕らに語りかけているようでもあった。

 

『ヒーロー』。スクリーンに映し出されるのは、これまでのamazarashiのMVやその制作資料を抜き出した映像。音楽以上にリビングデッドに続いてこれが流れるのが衝撃的で、これはamazarashiとこれまでの僕らを振り返っていくライブなんだとはたと気づいた。流れていく映像に呼応して、走馬灯みたいにこれまでの楽曲の印象的な歌詞が瞬いていった。

 

ここで、MC。曲は、すぐに終わる。ライブも、あるいは人の人生すら、終わってしまう。だからこそ、あの夜を終わらせに、ここに来たのだと。『もう一度』、と。

そして曲が流れてくる。youtubeにもあるそのままの映像が、映し出される。

 

バンド陣の後ろに。

 

一瞬思考が停止して、ただ卑怯だなぁと思う。印象的な歌詞だけが全面のスクリーンに映し出されると共に、青や紫のバックライトが幻影みたいにamazarashiの影を浮かび上がらせる。そんな演出は知らない。あまりに格好良くて、素敵で。未知への興奮に沸き立ったまま、『たられば』『さよならごっこ』ときて、『月曜日』。

 

何だこれは…。言葉がより細切れになって、鋭利になって、大きくなって迫ってくる。少しだけ写実的になった背景との組み合わせにぐっと引き込まれる。ラストの伴奏部分で一枚絵が刹那的に切り替わっていって、完璧に圧倒されてしまった。

 

息をつく間もなく『それを言葉という』。この曲は一層詩的でとてもすきな曲だ。MVでは中央のスピーカー付きのモニタに小さく映し出される映像が、今度は彼らの後ろで流れていって、全面のモニタには何も映らない。それでも彼らは不思議とどこか遠くにいるようだった。

 

「言葉にしなくちゃわかんねぇよ」と歌った後のMC。言いたくても言えなかった言葉。何より言われたかった言葉。それは夜の雨にかき消されてしまった。僕らの夜はいつだって雨ばかりだ。0になってしまった夜から全ては始まり、0を1にして、1を10にして、10が100になった。

 

『光、再考』これは0を1にするための歌だと、そう言った。最初のCDの最初の曲。0ではないが、しかし1ではない、「0.6」の始まりの歌だ。会場で購入した「0.6」にほんのりと思いを馳せる。「君はいま日陰の中にいるだけ」がすこしゆっくり、噛みしめるように歌われた。一筋の涙が、感情を飛び越えて頬を伝っていって、自分でも少し驚いた。

 

耳馴染みのないイントロから始まるのは『アイザック』。これはいうなれば100の曲だ。一番新しい、amazarashiの到達点。全面のスクリーンに歌詞が映し出されたかと思えば、後方のスクリーンが白く煙る。演奏はなく、映像もなく、ただamazarashiがそこにはあった。そう思わせるだけの作品だった。短い曲だが、伝わってきたものは大きかった。

 

『季節は次々死んでいく』は比較的新しい曲のように思うが、しかし過程の曲だ。メディアへの露出を含め、10を100にしたのがこの曲だと言われれば確かに納得もする。「疲れた顔に足を引きずって――」の部分はとても秋田ひろむらしいと僕は思っていて、声に出さず口を動かしながら聞いていた。

 

『命にふさわしい』は少し異質な曲のように思っていたが、このライブの流れで歌われたこの曲は、僕らが泥臭く生きていくことへの賛歌のようだった。人形を使ったMVは要所要所で背景のスクリーンに映し出されるのみだったが、それが何かを象徴しているようでゾクリとした。最後に喉がちぎれるくらいに叫ばれた「光と陰」の連呼は、何かを懇願しているようで、それは最後に氷解するのだけれど、怖いくらいだった。

 

amazarashiが喪失を抱えて進むグループというのはそこそこ知られた話だが、しかしそのMCの後に『ひろ』は反則だ。スポットライトは秋田ひろむとキーボードの豊川だけを照らしだして始まる。スクリーンは何も映さない。「やりたい事をやり続けることで 失うものがあるのはしょうがないか」と全員の声。スポットライトも5人全員を照らす。「今年も僕は年をとって――」でまた二人に戻り、サビでまた5人に。映像がないぶん些細な演出が印象的で、拍手すら忘れてしまいそうだった。

 

そして『空洞空洞』へ。いくらなんだって、豊川と二人で歌うのは反則だ。何度も聞いたはずの曲なのに全くの別物で、胸の奥が熱くなる。人間、完全にエモーショナルに飲み込まれると言葉が出てこないもので、語るに及ばずということになる。

 

『空に歌えば』です。わかりますね。映像はライブ用でないそのまんまを全面スクリーンに映し出すだけなのだが、後ろに彼らがいることが、ライブで歌われるということが、どうしてこんな違いを生み出すのか。語りで噛みしめるように言われた「この人生は生きるに値する」が聞けただけでライブチケット分の価値があったと言っても過言ではない。

 

『千年幸福論』。なるほど。これか。映像がとてもよくて、僕は二階席にいたのだが青く揺れるライトが観客頭に写って揺らめくさまが夢幻のようで。ああそうか、最初のMCでも言ったとおり、終わりは来てしまうんだ。それでも僕らは、ずっと続いて、それこそ千年続いていく幸せを望まないではいられないんだ。「終わりはいつも早すぎる」という最後のフレーズは、演奏にかき消されてよく聞こえなかった。

 

そう、全部終わるんだ。ライブもamazarashiも千年は続かない。だから、すべてが終わってしまう前に、あの夜に消えてしまった言葉を、ちゃんと言わなくちゃいけない。

 

『独白』

 

このライブの趣旨とはちょっとずれるけど、曲の前半部で分かってしまった。

ああ、新言語秩序とは、朗読演奏実験空間とはそういう試みだったんだ。検閲を行うのは、言葉狩りをするのは、なにも作中の新言語秩序だけではないんだ。だからこの物語はフィクションであって、現実の事件・団体・人物とのいかなる類似も必然の一致なんだ。だから現実のほうがよっぽど無慈悲だと歌ったんだ。だから、言葉を取り戻さなくてはいけないのだ。

でもやっぱりここで叫ばれる「独白」は僕らの夜に向けたもので、夜に吸い込まれた言葉を取り戻さなければならないと強く決意した。

 

だから僕らは、いや僕は対峙しなければいけない。

そう、『未来になれなかったあの夜に』。

 

ジュブナイル」「もう一度」「逃避行」「命にふさわしい」心に響くフレーズを持った曲は時系列を問わずいくつもあるが、これはその集大成とも言えよう。それほどまでに秋田ひろむの態度は今に至るまで一貫していて、amazarashiはとても心強い味方だと確信できる。あまりにぐずぐずに泣いてしまったものだから、歌詞も殆ど覚えていないしメロディーなんて欠片も記憶していないのだけれど、救われたという事実はここにある。

 曲は最初のMCと同じフレーズで始まって、このライブすら一つの物語に落とし込んでしまうのかと感嘆して、もう涙が止まらなかった。やられた。これはライブなんてものではなかった。あの忌々しい夜に牙をつきたて、それに押しつぶされてしまいそうなあの頃の僕を肯定してしまう周到な戦争だった。

夜はもう終わっていて、しかし眩いばかりの朝でも無く、眼の前に映るこれは一体何だ。全てを飲み下して、いま生きている。自分に向けられた人差し指を逆向きに返すために、自分が変わってやる必要はない。苦悩は苦悩のまま、しかしそれは自分についた枷ではなくあの夜に向けた刃でこそあれ。

 

秋田ひろむは最後に伝えたい言葉があると告げ、「ありがとう」と叫ぶ。割れんばかりの拍手の最中、精一杯ありがとうと返して、ライブは終わった。僕の抱えていた夜たちもまた、終わった。

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未来になれなかった全ての夜に・まえがき

星空の鍵です。
ライブの感想をぜひ欠いて欲しいという声が寄せられているのですが、その前にライブの時に思ってることとか、このライブに対する気持ちとかがあるので書いておこうと思いました。本編に入る前にだらだらと書いて面倒に思われても良くないですし。
このところ感情の塊みたいなフォロワーができて感化されているというのもあります。感情の揺れ幅が大きく敏感になるのはたのしくてとてもよいですね。



まずライブ。とはいえライブ経験なんて片手でようやく数え切れなくなるぐらいのもので、大きなホールのライブはこれで2回目です。回数なんてどうだっていいんですよ。あのライブ会場という空間が、本当に得がたいものだという感情は、多分多くの人はあんまり抱えていないものだと最近分かってきました。

周りの街から、あるいはずっと遠くのどこかから、たった一つのものを求めて1箇所に集まっている。ホールに入って見下ろした、あるいは見渡したあの光景の中にいる人間全てが、ほんの数人の人間の為に時間とお金とを費やしてここにいる。こんな異常な集会に自分がいる。こんなにも馬鹿げたことが他にあるだろうか。僕はだいたいこんな感情を抱えてライブ会場で打ち震えています。



そして「未来になれなかった全ての夜に」というライブのタイトル。アルバム「あんたへ」以降のamazarashiは心底自分が感動できる曲から聞く人間に向けた能動的なメッセージへと転換して曲を出してきています。そのひとつの完成形が「新言語秩序」であり、朗読演奏実験空間と銘打たれたそのライブでした。これは正にamazarashiというコンテンツから打ち出された明確なイデオロギーであり、この時代を生きていく僕らが標榜して行かなければならないものだと考えています。

でもやっぱり、大仰な主義思想では生きていくことは出来ない。世界をずっと貫徹していくモノは大切ではあるけれど、日常に、個々人に寄り添った音楽だって必要だ。これはきっとそんなライブになるんだろうと確信しています。
僕らみたいな人間に夜はどうしたってのしかかかってくるものです。月と星と何より街の灯りが目を覆うほど眩しく、静寂がとめどなく鳴り響いて止まない夜。耳を塞いでも目を塞いでもぐるぐると回る暗い考えは留まることを知らず、「明けない夜はない」という底抜けに明るい呪詛に唾を吐き掛けてようやく生き長らえてきた。
そんな「未来になれなかった全ての夜」と対峙する何か。「歌は届く、手の届かないところにまで」というのはamazarashiのいつかのCDの表題でした。このところ雨は降り続けていたが、「空に唄えば」で雨は止んだ。であれば、星の瞬く夜に手を届かせることだってできるでしょう。
セトリは全部一緒とかそう言う話も聞きましたが僕は見ていないので関係のない話ですね。1人ではしゃいできたいと思います。

それじゃあまた、いつかどこかで。今回はきっと近いうちに。

それでも言葉を紡ぐ

音楽への嫉妬がなんとかという文章に触発されて書いています。星空の鍵です。

詩歌という言葉もあるほどで、詩とメロディ、あるいはリズムというのは本当に密接な関係にあります。575や57577といった詩は一定のリズムで読まれますし、中世ヨーロッパにおいて真剣に詩を紡ぐ職といえば吟遊詩人というのが真っ先に浮かびます。実際のところどうだったかは知りませんが。

 

僕の好きなアーティストであるamazarashiもポエトリー・リーディングという手法をよく取ります。僕自身それらはとても好きで、だからこそ大変に悔しいです。

 

音楽、殊にポエトリー・リーディングや弾き語り。これらは詩の伝達力を何十倍何百倍にもし、旋律とともに甚大な貫通力で心をぶち抜いてゆく。空気を震わすことのできない詩の伝えられる分を、一足飛びに乗り越えてゆく。大好きな音楽の一節を、心の支えとして大切に包んでいる人は少なくはないでしょう。例に漏れず、僕もその一人です。

 

それはとても残酷な話です。僕は音楽はできない。少なくとも今はそうという話ですが、少なくともいま使っている言葉たちを旋律に乗せようとは思っていません。

 

これはある種の絶望で、文字書きの原動力の一つだと信仰しています。

音楽にすれば、きっと耳に心地よく吸い込まれていくんだろう。

絵や写真や映像が使えれば、もっと多くの人の目にとまるのだろう。

でも、それではいけない。

絶望を抱えながら、言葉しか使うことができなくても、「でも、それでも」ということができなくなったら、物書きとしておしまいなんだろうと思います。

 

音楽では溢れてしまうような言葉の力が、旋律に乗らない詩にあるのだと信じて。

 

それではまた、いつかどこかで。

 

はじまりはじまり

なかなか久しぶりな気がします。星空の鍵です。

平成が終わり、令和となりました。2000年に生まれ、できたての学校に通い、そして令和に大学生となる。我ながら結構節目節目に出会いながら生きているのでは。
前にも同じようなことを書いた気がしますね。ボツにしたやつだったかも知れません。

まあ元号が変わったからと言って何かがある訳ではありませんね。そうならないようにしてくださったという事なんですが。
兎にも角、祝う事が沢山あるというのはそれだけでいい事です。終わりと始まりで2回はしゃげるのでとてもお得だ。長期休暇の最中であるというのも素敵なことです。

さて、特に語ることがある訳では無いです。日記みたいなのを書いたっていいじゃないか。そういえばこれブログだし。平成の話ではないですが、ブログってそもそもそういうものだった気がします。

大学に通い始め、ひと月ほど一人暮らしをしてきました。そうしてこの度岡山に帰省してきた訳ですが、改めてこの街は、何より実家は住み良いなと感じています。
母は偉大だ。ご飯を作ってくれるし、しかもおかずが複数ある。冷蔵庫や棚にはバラエティ豊かな調味料やらお菓子やら飲み物やらが詰まっているし、お風呂は脱衣所がちゃんとあって足を伸ばすことだってできる。夜中の通話がはばかられるのはあまりよくはないけど、ベットから手を伸ばしても天井に届いたりしないし、掛け布団は柔らかい。この文章は寝床で記述されているわけですが、文章の質は寝床の質に如実に影響していると確信しています。1番安いやつとは言わずお金をかけるべきでした。
これ母じゃなくて家の話ですね?床がとても広いなぁと思います。家族にはとても感謝しています。

街!とても過ごしやすい。感傷的なものではなく実利の話として。自転車にとても優しいなぁと思います。住んでいる町は坂が多く、歩道も狭くて自転車を漕ぐにはどうにも不便で。
倉敷方面ならサイクリングロードが整備されているし、岡山中心街ならももチャリだったかレンタル自転車が整備されているしで県として自転車に意外と強いのかもしれませんね。大きな道が沢山あって、曲りなりにも政令指定都市の中心部なんだと痛感しています。こちらでは自転車屋さんをそれなりに見かけますが、住んでいる所には全然ないというのも思えばそういう関係なのかもしれません。

他にもいろいろありますが細かくあげていけばきりがないですし、戻ってきて改めて向こうの方がいいなぁと思うこともあります。PC周りなんて向こうでカッチリ整えてしまったし、通話もこっちじゃ難しいというのは前述の通り。有線LANを体験すると無線には戻せませんね。あとファン付きの台がないのでゲームをするとPCが唸りをあげています。夏に帰ってくる時には持って帰ってあげよう。

日記かこれという文章に仕上がりました。近況報告というかそんな感じですね。ほんのひと月だけれど、あちらも立派な帰る場所になったんだと思います。

それではまた、いつかどこかで。

それでも世界は続いていく。

身を焦がすような情動も、張り裂けてしまいそうな感情も、反省も後悔も感謝も激励も、言葉にすればこんなにも嘘っぽくなってしまうのに、あの流行りのポップミュージックの蜃気楼みたいな歌詞が、たくさん人の心に届くのはどうしてなのだろうか。

 

キラキラの甘いお菓子は確かに美味しいけれども、でもどうしてもそういったものがダメな夜というのは確かにあって、それでも世界は続いていくから、「それでも世界が続くなら」という話です。

 

 

 

 

 

「それでも世界が続くなら」というバンドがある。

声がいい訳ではない、歌詞が特別に詩的で韻を踏んだりもしていないし、メロディや音の種類や量が素晴らしい訳ではない。口ずさめるような耳残りのいいフレーズもない。ボーカルはイケメンじゃないし、ライブだって派手なステージライトが煌びやかに照らしたりしない。

 

それでも、僕はこのバンドの曲を聞かないではいられない。彼らが歌うことは、ただ本当にどうしようもなくそうだということでしかなくて、音楽にすればわかりやすく手っ取り早く感動させてしまうという葛藤との対峙もあったり、残酷だ。

それでも、手紙のように、叫ぶように歌われる「それせか」のうたは、なにか欠けてしまった物を埋めてくれる様で。

 

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CDのラベルの注意書き

 

 


それでも世界が続くなら「SNSとオフライン」


それでも世界が続くなら「イツカの戦争」

説明文の所の長文含めて「それでも世界が続くなら」なので是が非でも読んでほしい。

初期のMVは普通にしんどい映像で曲以前の問題としてしんどくなるので各種配信サービスで聞いた方がいい。URLを貼ったのは大丈夫なやつを選出した。

 

夢や希望では生きられない僕らに。

どうか明けないでと願ったあの最悪な日の夜に。

 

どうにもならないことはどうにもならない。残酷な事に明けない夜は無いし、「こうだったら」が現実になることも無くて、こうしている今もどこかで誰かが泣いている。

生きて欲しいだなんて、死なないでなんて言えないけれど、君が死んでしまったら僕は悲しいよ。

 

曲中の歌詞だったり、ラジオの話とか雑誌のインタビューとかでよく聞く。これが結構な心の支えになっている。

 

このバンドの曲が聞こえなくなったら、いよいよ全てが終わりなんだろう。セカオワやBUMPやRADや、amazarashiさえも聞こえなくなった夜に、それせかだけは夜を超える力を与えてくれた。

 


それでも世界が続くなら「ニコニコ動画インターネットワンマンライブ」

 

 

 

 

 

何が言いたいのかよくわからなくなりましたが、彼らの曲を聞いて欲しい人が何人かいるというそれだけです。

嫌いだったら、それで全然構わない。

 

 

最後に。

こんなクソみたいなバンドの気持ち悪い音楽なんか、聞かなくていい。こんな最低最悪の曲は、本当はこの世界に存在しない方がいいに決まっているんです。

だって、こんな曲を必要としている人がどこかにいるってことなんだから。

めて、この文章を読んだ人達や僕の知る人達が、こんな曲を聞かなくていいようになりますように。

 

それでは、また、いつかどこかで。

詩のはなし

おはようございます。星空の鍵です。現在時刻は午後11時を回りました。

 

物書きという種族は書く場所があると無限に書いてしまうという重篤な病に侵されており、そういうことです。お腹いっぱい焼き肉を食べて熱い風呂に入ったことで発作が起きてしまいました。

隙間風の吹きすさぶ木造家屋でお腹を鳴らしながら書かれた詩は大変ドラマチックで、民衆のエモーショナルポイントが不当に加算されますが、基本的にはお腹いっぱいの方が良いものが書けます。人間の脳はご飯を食べるとできるぶどう糖で動いているからです。

 

そういうわけで詩です。詩とはなんだ。

僕も詩を書く者の端くれであるわけですが、どうやって書いているのか完全に謎ですし、詩とはこういうものだという何かがあるわけでもないです。

この文章を書いている最中で投稿されたものです。やられた。タイムリーがすぎる。

岩倉文也さんは完全に同年代の詩人で、とてもすごい。ツイートされるのはほとんど140字きっかりの定型詩で、毎回かなわないなと感じます。僕も試みますが、言葉のリズムと全体の空気感を保ったまま言葉を増やしては削らなければならず、大変に難しい。重く鈍く、読んでいる最中の時の流れがゆっくりになる印象があります。

こんな場末のブログを見ている隙があるなら彼のツイートを遡ることをおすすめします。

 

詩は物語を書くことのできなかった人間の最後の拠り所だという話を小耳に挟んだことがあります。物語とか本当に書けない。カクヨムに短編を上げましたが(宣伝)、長編とか全く書ける気がしませんね。

話を戻しますが、詩とは、物書きの紡ぐ、あるいは彼ら自身としての物語になることのできなかった言葉たちの、墓標のような、消えてなくなってしまう前の最後の輝きのような。

だからこそ、言葉のない世界に継がれる物語があるとしても、詩はないのだということになるのでしょう。

 

そんな話でした。

そういえば送られてきた写真から詩を仕立て上げるということを密かにしているので、ついったのDMなどに送りつけて貰えばいつか届くかもしれません。

長い文章が書けるなら本の感想なんかもここに書いてもいいかもしれないですね。

それじゃあまた、いつかどこかで。

 

カクヨムの文章はこちらに

https://kakuyomu.jp/works/1177354054889025816/episodes/1177354054889032152

単語の定義の話

単語、大切ですね。
言語というのは単語の連続であり、単語がなければ文字だけで物事を伝えることができません。

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上の画像の物質は「りんご」と呼称されています。一般的に「りんご」と聞いた人類はこれを思い浮かべることでしょう。

一方で単語というのは以外にも曖昧な物で、一口に「りんご」と言ってもサイズは様々でしょうし、色味も様々で、青いものを思い浮かべる人もいるでしょう。世界的IT企業のロゴか、もしくはその製品や会社そのものを思い浮かべる人もいることでしょう。りんごを見たことも聞いたこともない人がいるのであれば、その人にとって「りんご」は何の意味も持たない文字列に過ぎません。

何故こんな話をするかと言うと、「うったて」の文章を書いてくれとフォロワーに言われたからです。好き勝手書くぞ。残念だったな。
うったて。UTTATE。先の文の通り、多くの人にはこれは何の意味も持たない文字列であることでしょう。
うったてとはこれのことです⬇
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(これもフォロワーから貰った画像)

はい。「うったて」です。それ以外に表しようがない。
「筆で文字を書く時の一番最初のなんかぐって力を入れたらできるあれ」です。
(調べたところ「起筆」というらしい。初めて知った。)
これが日常会話で使用されているところは寡聞にして聞いたことがありませんが、使う人は使うらしい。由来もあるそうで、とても謎だということがわかります。

佐野 榮輝 (さの えいき)様 ウッタテ考
http://www.ndsu.ac.jp/sp/department/japanese/blog/2006/01/essay27.html

方言独特の特定の概念だけを包括する表現というのはとても面白く、その地域の暮らしぶりなども透けてきますね。(具体例が出てこない。許して)
程度の表現なんかもよく調べると特定の条件でしか使わなかったりと、創作で方言を出す時にしっかり研究していないと大惨事になったりします。

これが言語になるとさあ大変という話になり、日本人はそのへんが適当で本当に大変な事が起こってきているという話もあります。
アナログゲームの民なら誰もが通る、Diceはサイコロと訳すがサイコロは6面ダイスしか指さないので説明が大変という問題なら可愛い方です。
原義に盤上遊戯を含む「sports」を初期段階で「体を動かす運動」と訳してしまったせいで、今になってeーsportsという考え方が受け入れられなくて大変なことになっていますね。
海外で戦没した日本兵の慰霊碑の「英霊」をHeroと表記したことで現地の人間が大激怒というニュースも最近見ました。
言語が異なると基盤となる思考の傾向、倫理観の形成パターンが違うので、我々物書きにも悩ましい問題です。

そんな話でした。
それじゃあ、また、いつかどこかで。