夜の境目

車の音とか電車の音とか、少し鮮明に聞こえるようになって、虫の声が響きだして、秋が近いなと思う夜。今日辺りから夜も長くなるんでしたかね。いろんな音が近いのは、湿度とか気温とかそういう面で空気が軽やかになったからか、それともこういう秋の空気のせいで、思考の歯車がずっとなめらかに動くからか。
なんにせよ涼風の吹く秋の夜長は考え事をするのに向いているような気がしていて、だからこういうものが上がってくるわけです。

 

 

友人のツイートをみて、今の自分のことを鑑みたのが今回の最初の歯車。

 

いろいろあるけど、やっぱ後悔はないんですよね。関東の大学だとか、もっと偏差値の高い国公立に行っていれば、あるいは文系の思想を持った人間の多い場所に行けば、また違った大学生活だっただろうし、同期に気のおけない友人の1人や2人はできていたのかも知れない。

 

でも、今の交友関係はなかっただろうし、今住んでいる場所だからできている立ち回りもなかったと考えるなら、否やはないということ。どうしたって変えられないものは変えられないし、歴史にifはないのだから、やっていけることをどうにかやっていくしかない。

 

この連休で収納家具を買おうとか言ってたのにやらなかったとかそういうのもありますが、時間は戻らないのでね。得られたものは確かにあったし、それは違う道では存在し得なかったものです。知らない話ですね。

 

 


インターネットで関わる人間のことはある程度信用していて、それはこの場所を拠り所としていたり、一定以上のリテラシーを持っていたり、そういう人たちと相互に関わり合って繋がっていたりするから。

 

突然話が変わったように見えますが、これは交友関係の話。大学の人間には全く話せないけどインターネットの人間に話せることはいっぱいあるなと言うめぐりから。


僕自身の内情と言うか吐露した感情を持ち逃げされたりはしないという安心感かも知れない。それでも重たい話とか、政治的な話は躊躇してしまって話せないから、そういう関係にしていきたいという思いはある。

 

対面じゃないからとか声だけだからとかそういう話ではないんですよね。一緒に過ごした時間かも知れないし、人格的な成熟度の問題かな。インターネットくんだりまで出てきた人間はきっと1人で考え込んだりする時間が他の大勢より多いのは確かで、そういうのかもしれない。

信頼というものとはどうにも違うのかな。自分が精一杯考えて唸って結論を出したり撤回して書き直したりしてるものを一度も考えたことが無さそうな奴らにそういう考えたものを出したりはできないな。そういうことかな。

 

はてブロの文体は丁寧語であることが多くて、これはちょっと明るく話をしたいなという祈りだったり、自分の中で「文章」という形に召し上げるならこういう書き方のほうが好ましいのではというなんだろう、一種のこだわりみたいなものか。今みたいな書き方をしているときは、ずっと直情的で表現へのこだわりも少ないような。こう書いたほうが美しいなみたいな遂行の仕方もしないし、心とキーボードの距離がずっと近いとでも言えばいいのかな。

そういう意味で、話ことばで声が聞こえるみたいな文章を書ける人は結構尊敬していたりする。僕はこういうふうにしか書けないし、考えられないので。僕もそういう人も、頭に浮かんだものをそのまま投写しているはずで、不思議なものですよね。ほらまた、丁寧な文章の形になってしまった。

 

なにかまとめがあるわけではない。人にうまく言えない分をこうやって文章にして、誰か見てくれと旗を振っているのかもしれない。いいかげん眠たくなってきた。

 

ではまた、いつかどこかで、今度はあるいは声と声で。