2020/03/28

他人に触発されて生きてきているので、誰かの100記事目という話を受け、重い腰を上げてキーボードを叩いている。

 

少しずつ溜まってきたものが限界を迎えそうになって、たくさんお酒を買ってきてしまった。外食でご飯を多めに食べても全然満足感がなくて、危機を感じて。なんとかかけてきた祈りは無意味で、先が見えなくて、できることはあまりに少なくて。人間ってもう少し賢い生き物だと祈っていたのにな。

いくつか提示されたライブの予定と、止まってちゃいけないなっていう事項がいくつかあって、どうにか持ち直した。音楽の力も借りた。お酒は、やくに立ちそうにないかな。これは気分の問題。

 

梅酒がおいしい。中等の自販機にあった梅の飲み物が好きだったのだけど、途中で業者が変わってなくなってしまったことを思い出した。そういえば実家でも梅酒を仕込んでいたっけ。

 

実家といえば実家に帰るのに大阪か京都の大きな駅を経由しなければならないので断念した。マイクやオーフェス、ギターがあちらに置きっぱなしなのもたまりきってしまった一因かもしれない。

 

ずっと家の中に居たので特に書くこともないかな。雨が降って、傘を揺らしながら散歩したのが楽しかった。小さな公園に桜が咲いていましたね。通りがかっただけだったけど見れてよかった。この雨で散ってしまうかな。

 

明日はぐっと冷え込むそうなので、上に上げてしまった毛布をもってきて寝ることにします。

それではまた。

色々あったのいろいろを。

今年もとうとう終わろうとしている。この文を書いている今はまだ幾ばくかの猶予を残しているが、誰かがこれを読む時にはもう今際の際のことだろう。この文章はいくつかの夜とそこから零れた言葉たちを継いでは剥いでしてできているはず。この一年はそれと同じように、楽しかった思い出を剥いできては心の穴を塞いで長らえてきたのかもしれない。

 

楽しかった。本当に充実した1年だった。あの時こうしていればなんてものはいくつもあるが、やり残したものよりやりたかったことの方が目に付くし、手にしたものはいくつもあった。後悔していないと心から思う。これまで積み上げたものは、こうしてこの形の僕自身になった。選んだ選択肢を振り返ってみれば、これは自分だなと悪い笑顔が浮かぶ今を心底愛しいとすら思う。

 

大学にでも入ってみれば何か考えを変えるかと淡い期待を持っていたが、結局お前はインターネットに依存してしか生きることが出来ないみたいだ。もっと上の大学なら何か違ったかもしれない。もっと青臭く畑の土にまみれているかも知れないし、キラキラに吸い込まれて青色の紙を政府機関に提出しているかもしれないし、ヘルメットと角材を装備して拡声器相手に声を張り上げているかもしれない。その場合はこの場所でしか有り得なかった出会いはなかったわけだし、今のように文章を書いて、何かを読んで録ることはしていないことは確実だ。何か文句があるか?ないな。キッチンはもっと広いのがよかった。

 

成した経験はそれなりに。東京でのオフ会にライブ。京都への訪問は2回ほど。海の日に神戸に突撃してみたり。フォロワーとはいえ初対面の人間の家を宿と決め、あまつさえその母に車を出してもらって周遊した沖縄旅行は生涯に渡る武勇伝にさえなるだろう。振り返ってみれば一つ一つの旅情は大きく深いものだが、もう少したくさん動けたようにも思う。行動回数で言えば十分かな。Twitterの見過ぎかもしれない。

方や創作に潤沢に触れたかといえばそうでもない。映画も見たには見たが片手で数え切れる本数でしか無く、見るべきだと奮い立っていた作品も結局みたいなかったりする。書店は気軽に行くには手間になってしまったし、映像は手軽になったのに億劫がっていてよろしくない。よくないな。物語に対する感受性が低下しているし、紐解く力が衰えている気がしてきた。これはしっかりと来年の課題とする。あまねく物語は思想思考の集合であり、これを以て自分の更新をせずに止まってしまったならそこで終いだ。滞って淀んだ水には魚も鳥も寄り付かないように、停滞した思想に人は寄り集わない。大学生には春休みというやつがあり、Amazonにはプライムビデオという素敵な試みが存在する。利用しない手はないね。改めて書き残しておく。

 

今年のハイライトといえばamazarashiのライブ。『未来になれなかった全ての夜に』。こいつに尽きる。これがなければ永らえていなかった。これがなければ潰れていた。これがなければ止まっていた。これがなければきっとあんな風には振る舞えなかった。

いや……いいライブだったな……。書かれた文章が既にあるので、詳しいことはここでは語るまい。円盤を購入してあり、行った公演ではやらなかった曲も聴いてある。秋田さんが歌う「ロングホープフィリア」。これもまたよかったんだ……。

 

1年前の自分に、お前の書いた文章は、お前の読んだ文章は確かに人ひとりの命を長らえさせるに足るものであったと言ったら一体どんな顔をするだろうか。

今年1年にあったいくつもの出来事は去年1年の停滞を丸々食いつぶしてもなお余りあるほどに濃いものであったとは思うが、それにしたってまぁ運命の女神という奴は。それがいかなダイス目の組み合わせだったにしろ、よほどひねくれたイベント表を持ってきたものだと思う。

「考えるより前に身体が動いていた」だの「困っている人を助けるのは当たり前」だのはヒーローにありがちなお節介焼きだが、彼らほどの軽やかさは無くとも自分も似たような狂気を宿していたようで。

 

今思えばあんなものは気休めに吐いた戯言にしか過ぎないが、餌どころか針も付いていないような釣り糸に実際に掛かってしまったのだから仕様がない。厳粛な脳内会議を開いてみれば、懸念すべき事項は仮定の話でしかないのだから実際に存在する懇願にのみ誠実であればよいと結論が出た。だってその救いの手は、誰よりも僕自身があの時に欲しかったものなんだから、自分を藁だと卑下するつもりは無いが僕よりも追い詰められていれば藁にだってすがろうて。

こんな時間に歩いている人間なら判別もつくだろうと自転車で駆け出して迎えに行ったのは良い思い出でもある。ともあれ、液晶1枚か振動板1枚かのフィルターを取っ払って語られる切実さには目を剥いたし、僕でなければどちらかが力尽きていた。それは或いは比喩ではなく、といった具合ですらあっただろう。しかし相対したのなら酸いも甘いもない。これまで積み上げてきた総てで当たらねばならなかったから、僕自身が言葉の大切さを再認するのにこれ以上の出来事はなかった。

人間は容易く変わることは出来ない。はるか昔に投げかけられた棘が未だに心臓に刺さろうとしている。幾年もかけ続けてきた呪いが、命を棄却しようとしている。それらはファンタジーの魔法のようにワンフレーズでなくなったりしない。1行では無理なら10万行ならどうか、1日では無理なら10万行ならどうかというのは誰かのうたの一節だがまさにそうだ。確かに変えられるものはきっとあるし、何時か命が自由を取り戻すまで、声をあげること、文字を紡ぐことをやめようという気など起るはずも無い。

創作者という生き物は、手掛けた作品が誰かの一時の慰めにでもなれば小躍りでもしようかというくらいのもので、ましてささやかな人生の啓示になるならば最上だ。その上に誰かを支える旗となったのなら、正に冥利に尽きるというもの。普通はそんなもの受けきれないのかもしれないが、僕はどうやら普通ではないようなので。七十億の中から、一億数千の中から、ひとりとひとりが出会ったのはそれなりの故あっての事だろうとは思っている。

 

そして求められれば張り切ってしまうのが人間の性というやつだ。書くこと、読むこと、話すこと。あれだけ剥き出しの好意をぶつけられたのだし、何よりやってやると言葉にしてしまったし、やらないわけには行かない。機材を整えたり、おっかなびっくりテストをしてみたり、準備は着々と整えられいる。動いていかなければいけない。

 

書いたな。どうしようもなく考え込んでしまう人間であるから、考えなくてはいけない事項はどうしても長くなってしまう。こんな風に好き勝手やってるよなという1年だった。

 

これは蛇足の文章。このまま何者でもなければずっと平穏だ。そのまま布団とでも添い遂げて終わりになればいい。でも、それじゃだめだ。それは邪な感情だ。遠くの神社からずっと鐘の音が聞こえるから、これはじきにうち払われる感情だ。そう信じているから、きっとそうなる。

なんかいいこと書きたかったのでそんな感じで。



今年一年ありがとうございました。こんな文章をこんなところまで読んで、もしかしたら好くれていることが何よりの支えになります。

来年は週1ぐらいの頻度で日記も更新してやりたいですね。行ってしまう前に星などつけてもらえるとやったーとなるので是非とも。

 

それでは、来年もどこかで。

ランダム再生するやつ

やるぞ~~

 

・君をつれて/flumpool

はじめてきいたなこの曲。ごめんて。入れるだけ入れて聞いたことのない曲というのが割とあるんですよ。ツタヤで10枚借りるときの数合わせにしたCDがそうで、SOLでよく聞くアーティストをチョイスしているはずです。flumpoolの曲はなんというか透明感みたいなものがある気がしていていいですね。

かっこいいなこの曲

 

 

・明日のハッピーエンド/それでも世界が続くなら

「明日はずっと明日のまま」という入りが印象的な曲。『もう君はいい人じゃなくていい』の中でも自分を顧みさせられる曲。曲調も結構好き。

 

 

・しとど晴天大迷惑/米津玄師

サビ前からにぎやかになって楽しい曲。なんかのきっかけでそろそろ米津さんの曲を聞いといたほうがいいのではというタイミングで借りてきたもののはずで、予備校をバックレた行き帰りの自転車でよく流していた記憶。音の使い方も単語のつなぎ方も面白くてとてもすき。ぱーぱらぱっぱ!

 

 

スノーマジックファンタジーSEKAI NO OWARI

1つの映画みたいに世界観がぎゅっと閉じ込められたやつ。冷静になって歌詞を見ると全く意味わからんけどロマンチックでいい曲ですよね。カラオケだと全く歌えなくてカッスカスになるんですよこの歌。今流れてるのはTreeのやつ、何億とかかかってでかい木を作って各地のライブ会場にも運搬する頭のいかれたツアー。行かなかったことが本当に悔やまれる。なにやらいろいろ触れるものが変わってきた時期のものだったような。

いろんな種類の音が絶え間なく流れて、この雑多さに惹かれたことを思い出す。

 

 

 

・蒼き日々/plenty

めちゃめちゃ好きな曲だ!plentyは異常に薄いCDが気になって棚から手にとった、僕が唯一他の何にも影響を受けず探し当てたアーティストだったはず。高いけど力強いこえが好きで、妙な中毒性がある。ずっと刺さって抜けなかったり、打たれてハッとなるようなフレーズがあるわけではないけど、全体の言葉の雰囲気が結構気に入っている。

 

 

・望遠のマーチ/BUMP OF CHICKEN

きぼーうおーうおうおーう!aurora arcは心底最高のアルバムで、その中でも一等明るくて、でも明るいだけじゃないのがBUMPだなーって感じで、しゃきっとしたいときによく聴く曲。何度聞いてもニコニコになってしまう。

言葉が羽を持って飛び回る描写は色んな曲にいくつもあるのに、どうしてこんなにバリエーションをもたせられるのか全くわからん。youtubeに上がってるMVは現実じゃないみたいできらきらしててすごいのでぜひ。

 

 

・祭りの準備/ガガガSP

わっはっは、こんな曲もあった。クソしょうもない恋の曲だけど、力強くて最高。聞いてた頃より心の余裕ができたのかずっと楽しく聞ける。ガガガのポエムパートいいですね。爆笑してる。

 

 

・Zero Gravity/Perfume

Perfumeは気合い入れて聞いたことないんですけど、細々とずっと聞いている。音楽も踊りも極めて完成度の高い作品群だからすごく尊敬している。音楽を音のついた歌詞じゃなくてちゃんと音楽として聴くようになったきっかけでもあるかも知れない。

 

 

 

 

だめだな~音楽の中身についてめっちゃいいい以上のことが言えないから自分語りになってしまう。ひさびさに自分の音楽ライブラリ掘り出せたから良しとしよう。

では、また。

 

 

 

夜の境目

車の音とか電車の音とか、少し鮮明に聞こえるようになって、虫の声が響きだして、秋が近いなと思う夜。今日辺りから夜も長くなるんでしたかね。いろんな音が近いのは、湿度とか気温とかそういう面で空気が軽やかになったからか、それともこういう秋の空気のせいで、思考の歯車がずっとなめらかに動くからか。
なんにせよ涼風の吹く秋の夜長は考え事をするのに向いているような気がしていて、だからこういうものが上がってくるわけです。

 

 

友人のツイートをみて、今の自分のことを鑑みたのが今回の最初の歯車。

 

いろいろあるけど、やっぱ後悔はないんですよね。関東の大学だとか、もっと偏差値の高い国公立に行っていれば、あるいは文系の思想を持った人間の多い場所に行けば、また違った大学生活だっただろうし、同期に気のおけない友人の1人や2人はできていたのかも知れない。

 

でも、今の交友関係はなかっただろうし、今住んでいる場所だからできている立ち回りもなかったと考えるなら、否やはないということ。どうしたって変えられないものは変えられないし、歴史にifはないのだから、やっていけることをどうにかやっていくしかない。

 

この連休で収納家具を買おうとか言ってたのにやらなかったとかそういうのもありますが、時間は戻らないのでね。得られたものは確かにあったし、それは違う道では存在し得なかったものです。知らない話ですね。

 

 


インターネットで関わる人間のことはある程度信用していて、それはこの場所を拠り所としていたり、一定以上のリテラシーを持っていたり、そういう人たちと相互に関わり合って繋がっていたりするから。

 

突然話が変わったように見えますが、これは交友関係の話。大学の人間には全く話せないけどインターネットの人間に話せることはいっぱいあるなと言うめぐりから。


僕自身の内情と言うか吐露した感情を持ち逃げされたりはしないという安心感かも知れない。それでも重たい話とか、政治的な話は躊躇してしまって話せないから、そういう関係にしていきたいという思いはある。

 

対面じゃないからとか声だけだからとかそういう話ではないんですよね。一緒に過ごした時間かも知れないし、人格的な成熟度の問題かな。インターネットくんだりまで出てきた人間はきっと1人で考え込んだりする時間が他の大勢より多いのは確かで、そういうのかもしれない。

信頼というものとはどうにも違うのかな。自分が精一杯考えて唸って結論を出したり撤回して書き直したりしてるものを一度も考えたことが無さそうな奴らにそういう考えたものを出したりはできないな。そういうことかな。

 

はてブロの文体は丁寧語であることが多くて、これはちょっと明るく話をしたいなという祈りだったり、自分の中で「文章」という形に召し上げるならこういう書き方のほうが好ましいのではというなんだろう、一種のこだわりみたいなものか。今みたいな書き方をしているときは、ずっと直情的で表現へのこだわりも少ないような。こう書いたほうが美しいなみたいな遂行の仕方もしないし、心とキーボードの距離がずっと近いとでも言えばいいのかな。

そういう意味で、話ことばで声が聞こえるみたいな文章を書ける人は結構尊敬していたりする。僕はこういうふうにしか書けないし、考えられないので。僕もそういう人も、頭に浮かんだものをそのまま投写しているはずで、不思議なものですよね。ほらまた、丁寧な文章の形になってしまった。

 

なにかまとめがあるわけではない。人にうまく言えない分をこうやって文章にして、誰か見てくれと旗を振っているのかもしれない。いいかげん眠たくなってきた。

 

ではまた、いつかどこかで、今度はあるいは声と声で。

Re:結果と過程の話

はい星鍵です。

 

みんなの意見が聞きたいとのことなので書きます。元の記事を僕は知らないけど。文字に起こすのに「聞きたい」ってなんか不思議ですよね。

 

はじめに。

僕はこういう二者択一の話題があまりすきではないです。どっちの方が価値があるとか、そっちには価値がないとか、そういう切り分けを進めていくと「価値のない人間」が生まれてしまうような気がしているからです。自分がどう転んでいくかなんてわからないので、いつか自分が考え抜いて宣告した「価値のない人間」になってしまうかも知れない。そうした時にそれを否定することはきっととても難しいでしょう。

 

それでも、前述の話題でいうならこれは「結果」の重さになるんでしょうかね。どちらかの天秤を皿を沈めるのであれば、「結果」のほうが重たいという答えになりそうです。平時の雑談の延長であればそう返します。長くなるので。

 

ここは時の制限のない紙面の上なので長い話をしましょう。

 

これはとてもひどいエゴですが、「結果」が全部100%で「過程」は無駄だと断じてしまうなら、僕がここに至るまで積み上げてきたものを、例えば一浪したこととか、そういうことを無駄だと切り捨ててしまうことになるのでそれはやりたくないですね。いまここにいることだって最良の「結果」とは言えないもので、「過程」においてもそんなに……おっと、これ以上はやめましょう。

 

というか「結果」とは一体?これは何処に焦点を当てた議論なんですか?

 

プロジェクトや事業に関して言うのであれば、これは「結果」でしょう。殊に資本主義市場においては利益を出して明確な数字として結果を出すことが「結果」となりますね。あるいはそうならなかったものは消滅しますし、それが「結果」でしょう。底に至るまでの破滅的な失敗だって、終了しなければ「結果」の前に効力を持たず、どれほど順調であろうと消滅という「結果」を残せば有象無象の失敗譚と同じことです。

よくある議論ではこの部分がスポットされて「結果」が大事という話になるのではないでしょうか。

 

でも人間は?

実績や功績、記憶や記録に残る諸々は「結果」では無いですよね。あなた方の人生、行った後なわけないでしょう。生きてるんだし。全部「過程」ですよ。

僕らには「過程」しか無いのだから、「過程」に意味がないのなら全てに意味がないということになってしまうでしょうね。であるから、「過程」はとても大切です。その全てに意味があるのだと、価値があるのだと、僕は主張します。

「結果」がそんなに大事なら、それに向かって最速で突き抜ければいい。現代日本に生きる人間の残す結果は大抵焼かれて灰になることですから、とっとと「結果」になってしまえばいいのでは。

すごい棘のあることを書いてしまった。僕は「過程」も大切にするので、ゆっくり積み重ねていこうと思います。

 

うわぁいこんな風にとっちらかるので二者択一の話題は嫌いなんですよ。結果と過程って別に対立概念じゃないでしょ。どっちかしか大切にできないほど僕らは不寛容でもない。この議論は舞台の上にたった時点で負け。どっちも大事にしましょう。

 

それではまた、いつかどこかで。

 

独白、回顧録、夜に紛れて。

やぁ

星空の鍵です。ツイッターでちょこちょこ書いて居たりもすること、書いていないこと、何処かに行ってしまう前に書き残して置かなければならないこと、ずっととどまったままであるけど伝わるようにして置かなければならないこと、まとまった言葉でしか伝わらないものはあるはずなので記しておこうと思いました。

 

 

 

今回の文章は結構重たくて、とてもパーソナルなお話です。最近しんどそうなフォロワー多すぎないか?彼らの吐露があったのに僕だけ出さないのは公平ではないなと思ったのもあります。そういったものも含めて、僕のイデオロギーの話です。

 

 

 

イデオロギーとは、簡単に言えば社会的・政治的な立ち位置、考え方のことです。持っとややこしいしっかりした説明もありますが、いまはそういう場面ではないし、僕は理系の人間なのでちょっとよくわからないですね。

僕の立ち位置は「自由主義」にあり、それが今回の話の全てです。寛容と啓蒙を旨とする政治的な立場であり、何より道徳的哲学。リベラルというと最近はなんか違う集合になってきてややこしい。今はそういう話でもないですね。

これが僕の根源です。あらゆる物を許容しよう。しっかりと考えられて出された言葉に貴賤はない。それがポジティブであろうとネガティブであろうと尊いものであることに違いはない。個人的な話をするなら、キラキラの成功譚は糖蜜のように甘くてやみつきになりがちですが、まったくもって栄養にならないので好みではない。

イデオロギーを抱えて、明確な柱として生きている人間はそう多くはないです。インターネットの外で知り合った同年代では片手の指で数えられるほどしか居ない。そんなものです。それほどまでに厳格な思想というのは運用するのが困難でピーキーな性質を誇ります。殊に自由主義であるならなおさらです。

自由主義の政治的な運用はさておき、こいつは言論の自由表現の自由、信教の自由を『一切の例外なく』認めます。これは世界で最も嫌いな、何を差し置いても棄却しなければならないような唾棄すべき言説であっても、です。放った言葉の全ては何れ自分に向けられるかも知れないということを強力に自覚し、歯を食いしばって全てを認めるという意地を張るということです。

また、自由主義は連帯不可能な思想であるというのが僕の持論です。自由主義の啓蒙とは「全ての人間が賛成か反対かを同調を排して自分で決められるようになる」ということで、それは「共感による連帯」を排除するということです。これも結構大事な観点ですね。

 

 

 

わかりますね。こんなもん抱えてて生きやすい訳がない。こいつをずっとこねくり回して生きてきたんです。議論の際なんて話にならない。思考のベースが違いすぎる。

僕の行動を支える大きなものはやっぱり音楽で、amazarashiやそれでも世界が続くならがその最たるものですが、「ああ、生き方と合致しているんだな」なんて聴き方をしている人間なんてそうそう居ないでしょう。きっとそれでいいと思います。僕はそこまで政治的な人間ではないので全ての人間を啓蒙しようとは微塵も思わないし、楽な方がいいですよね。

僕自身はこの莫迦みたいに面倒な考え方を抱えていて後悔をしたことはないので大丈夫です。こういう考えのおかげで救われた人間が居たみたいで、報われたなとすら思います。あまりに奇麗で、怖いとすら言われましたが、それは間違いなく正しい感性でしょう。僕ですらこのイデオロギーを第一に遵守しようとする自分が少し怖いと思うことはあります。それでも、これは僕の大きな柱の一つであり、掲げた以上例外を生むわけにはいきませんから。

あらゆる思想を、言説を、生き方を許容することは、いつ逸脱するかわからない自分に残すことのできる最後の砦だと確信しているから。逸脱者に向けた奇異の目や嘲笑の言葉は、自分がそうなったときに何よりも強烈に向けられるはずで、それは絶対に避けなければならないので。

とはいえ、人間は感情を持つ生き物で、表現に載せられた感情が鋭かったり重かったりすれば、傷つくことも、受け止めきれないこともあります。それが殆ど無い僕は、やはりどこか達観しているようにも思いますが。

 

 

文章はつながっていますが、夜を越えて、自分の文章を顧みて見ました。面倒なことを書いているなと思いましたが、消すのもなんだかなということで残しておきます。そして自分を顧みてみました。海に向かう電車の中で揺られながらの、これらの思想のルーツを探る思索です。

SEKAINOOWARI――当時は「世界の終わり」表記でした――からamazarashi、BUMP OF CHICKEN、それでも世界が続くなら。政治的なアカウントを見たのはツイッターでのセカオワ関連のレスバからだった気がします。ただどれもいまの考え方に至る明確な分岐点とまでは言えないものです。イデオロギーも歌の歌詞も、個々のケースや感情に名前がついたり音楽がくっついてきたりして補強するのみで、結局ここには自分でたどり着いたのかも知れないと思うようになりました。自由主義だって、成立するための最大の課題は自分がいかにあらゆる表現に寛容でいられるかにありますから。僕は嫌いな表現に眉を曲げることはあれど、怒りに燃えて歯噛みしたりはしたことないですね。

 

 

 

何が言いたいのかというと、前半の文章はそんなに意味のあるものではないということですね。イデオロギーが云々というのはつまるところ言い訳みたいなもので、僕は僕のやりたいようにやっているのだということです。僕の異常なまでの寛容さは他のなにでもない僕自身によるものということです。だから、これが剥がれ落ちることは絶対にない。そういうことでした。

 

 

 

もうちょっとだけ続きます。人に手を差し伸べることについて。

これもよくわかりませんね。やりたいようにやっているだけというのはそうです。雫石雅月や霖堂帷は差し伸べる人間で、凪川鈴音や鳴根ノアは差し伸べられた人間。星灯楓花はすべてを包括する。彼らは僕ではないが僕は彼らであるわけで、僕が誰かに手を差し伸べないのならそれは嘘だ。といった旨のことをTwitterにはいつかすこし書いたような。

 

 

 

「誰かに救いの手を差し伸べる人間は、本物の愚か者か、いつか失ってしまった人間だ」というのは、いつかタイムラインを流れていった言葉でした。その人はその後、救えなかったのは自分自身だと述べていて、そして僕もそうです。

あのとき欲しかった居場所を。あのとき欲しかった言葉のはけ口を。あのとき言ってもらいたかった言葉を。

 僕自身は相当に恵まれているという自覚はあって、それでもあれだけ苦しかったのだから、そうでないならなおさらのはずで、想像もつかないような苦しみを少しでもどうにかできるのなら。

僕は勝手にやるので、どうぞ勝手に助かって欲しい。僕が与えられるものなんて本当に無いので、自体が好転したらそれは個々人の力です。手を差し伸べるということは、それ以外の全てに手を差し伸べないということと同義なので。

 

 

 

ただ、関わった以上2で終わりたいですね。最終的に生存している人間をプラスマイナスした数です。0になるのはやっぱり悲しいですし、-2になれば最悪ですから。生存だけが我々に残された最後の砦だと、よく言う話ですがやっぱりそうなので。

 

 

 

だから、これは本当に微々たるものですが、迫り来る希死念慮に対する抵抗の文言です。次もきっと。この言葉の墓石の端くれでお会いしましょう。

それじゃあまた、いつか、どこかで。

 

 

 

 

 

 

 

拳の備忘録

はい
これはあるいはライブレポではないのかもしれないけれど、書き残しておかなければいけないと思ったので。
こういう感情はすぐに過ぎ去ってしまって後ろ髪を掴むことは出来ないので、いつかの自分のために。

とにかくエネルギーの塊だったということしかなく、大変なものでしたね。今21時というのが信じられない。さっき電車に飛び乗ったところのはずではないのか?腰と首が終わっています。全部終わりだ。

このライブはイミテーションメサイアから始まりました。これは僕の中でという話です。この曲の途中、僕より前の人間が最前に向かって駆けていく場面があって、1部は大人しくしておこうかなと考えていた部分もありますが、中途半端だな、と思ったのです。
大学だってたまに休んだりしてぐだぐだ行っているし、差し伸べた手を握りきることすらままならない。いまマイクを持っている人間は、きっと全てを突き抜けて好きなことをやってきているし今この瞬間だってそうであろうのに、僕はこの最高のライブで足を1歩踏み出すことすらできないのか。
演奏と声とが全部ばらばらに聞こえて、他の観客たちが意識の中から遠ざかっていって、時間の流れがぐっとゆっくりになって、そっからはもう何もわからない。そういう音楽の聴こえ方がする日は大抵大きさの大小はあれど決意の夜であることが多くて。やりたくない事もやらなきゃいけないし、楽しいこと、やりたいことは全部やらなきゃいけないなとそう決めました。とにかく、全部でこのライブを楽しもうと。霖堂帳をそういう人間として再定義して逆輸入するか、みたいな試みをしようとした気もしますが全部どうでもよくなった。WODを初めとする暴れる試みに参戦するの実は初めてで、なるほどこれが音楽に酔うということかとなりました。ボロッボロになりましたがまあたのしかった。そんな感じ。

2部。
ボロボロなので後ろから。やめておこう意に反して無限に身体が動くのは不思議なことで、推しの力でしたね。すごい。人間はここまでトリップできるんだ。歌が終わる度にもう無理だって思うんですけど、歌が始まると腕が上がるし頭は動くんですよね。
空に歌えばで体の動きが止まってしまって。みんなが暴れ出す中でどうしようもなく立ち尽くして縋るように腕をあげることしか出来なくて、ぐるぐると思考が巡りだして、ああ、結局自分はこういう音楽の聴き方に戻ってきてしまうのかってちょっと悲しくなってみたり。すぐ前に本家をライブで体験しても、全く違う歌になっていて歌詞に与えられる意味も全然違って、やっぱりぐっと響きました。語りがどんどん上手くなっていく。
いやーイミテーションメサイアですよ。祈るように伸ばした両手の内側に確かにタラチオさんがいて、上手く形容出来ないんですが、確かに在るなと。こんなことを書くと怒られるかもしれないんですが、届きましたよね、手が。
死にたがり。死ねないですよね。本当に。僕の好きな音楽、全部繋がってるんだなって。
あとは終わり。後ろの方で程々に暴れまわってたら終わった。謎の現象。明日は起きれないだろうし雑魚なので多分3日4日痛いまんまな予感がしている。

書きたかったことはそれぐらいです。最高に