色々あったのいろいろを。

今年もとうとう終わろうとしている。この文を書いている今はまだ幾ばくかの猶予を残しているが、誰かがこれを読む時にはもう今際の際のことだろう。この文章はいくつかの夜とそこから零れた言葉たちを継いでは剥いでしてできているはず。この一年はそれと同じように、楽しかった思い出を剥いできては心の穴を塞いで長らえてきたのかもしれない。

 

楽しかった。本当に充実した1年だった。あの時こうしていればなんてものはいくつもあるが、やり残したものよりやりたかったことの方が目に付くし、手にしたものはいくつもあった。後悔していないと心から思う。これまで積み上げたものは、こうしてこの形の僕自身になった。選んだ選択肢を振り返ってみれば、これは自分だなと悪い笑顔が浮かぶ今を心底愛しいとすら思う。

 

大学にでも入ってみれば何か考えを変えるかと淡い期待を持っていたが、結局お前はインターネットに依存してしか生きることが出来ないみたいだ。もっと上の大学なら何か違ったかもしれない。もっと青臭く畑の土にまみれているかも知れないし、キラキラに吸い込まれて青色の紙を政府機関に提出しているかもしれないし、ヘルメットと角材を装備して拡声器相手に声を張り上げているかもしれない。その場合はこの場所でしか有り得なかった出会いはなかったわけだし、今のように文章を書いて、何かを読んで録ることはしていないことは確実だ。何か文句があるか?ないな。キッチンはもっと広いのがよかった。

 

成した経験はそれなりに。東京でのオフ会にライブ。京都への訪問は2回ほど。海の日に神戸に突撃してみたり。フォロワーとはいえ初対面の人間の家を宿と決め、あまつさえその母に車を出してもらって周遊した沖縄旅行は生涯に渡る武勇伝にさえなるだろう。振り返ってみれば一つ一つの旅情は大きく深いものだが、もう少したくさん動けたようにも思う。行動回数で言えば十分かな。Twitterの見過ぎかもしれない。

方や創作に潤沢に触れたかといえばそうでもない。映画も見たには見たが片手で数え切れる本数でしか無く、見るべきだと奮い立っていた作品も結局みたいなかったりする。書店は気軽に行くには手間になってしまったし、映像は手軽になったのに億劫がっていてよろしくない。よくないな。物語に対する感受性が低下しているし、紐解く力が衰えている気がしてきた。これはしっかりと来年の課題とする。あまねく物語は思想思考の集合であり、これを以て自分の更新をせずに止まってしまったならそこで終いだ。滞って淀んだ水には魚も鳥も寄り付かないように、停滞した思想に人は寄り集わない。大学生には春休みというやつがあり、Amazonにはプライムビデオという素敵な試みが存在する。利用しない手はないね。改めて書き残しておく。

 

今年のハイライトといえばamazarashiのライブ。『未来になれなかった全ての夜に』。こいつに尽きる。これがなければ永らえていなかった。これがなければ潰れていた。これがなければ止まっていた。これがなければきっとあんな風には振る舞えなかった。

いや……いいライブだったな……。書かれた文章が既にあるので、詳しいことはここでは語るまい。円盤を購入してあり、行った公演ではやらなかった曲も聴いてある。秋田さんが歌う「ロングホープフィリア」。これもまたよかったんだ……。

 

1年前の自分に、お前の書いた文章は、お前の読んだ文章は確かに人ひとりの命を長らえさせるに足るものであったと言ったら一体どんな顔をするだろうか。

今年1年にあったいくつもの出来事は去年1年の停滞を丸々食いつぶしてもなお余りあるほどに濃いものであったとは思うが、それにしたってまぁ運命の女神という奴は。それがいかなダイス目の組み合わせだったにしろ、よほどひねくれたイベント表を持ってきたものだと思う。

「考えるより前に身体が動いていた」だの「困っている人を助けるのは当たり前」だのはヒーローにありがちなお節介焼きだが、彼らほどの軽やかさは無くとも自分も似たような狂気を宿していたようで。

 

今思えばあんなものは気休めに吐いた戯言にしか過ぎないが、餌どころか針も付いていないような釣り糸に実際に掛かってしまったのだから仕様がない。厳粛な脳内会議を開いてみれば、懸念すべき事項は仮定の話でしかないのだから実際に存在する懇願にのみ誠実であればよいと結論が出た。だってその救いの手は、誰よりも僕自身があの時に欲しかったものなんだから、自分を藁だと卑下するつもりは無いが僕よりも追い詰められていれば藁にだってすがろうて。

こんな時間に歩いている人間なら判別もつくだろうと自転車で駆け出して迎えに行ったのは良い思い出でもある。ともあれ、液晶1枚か振動板1枚かのフィルターを取っ払って語られる切実さには目を剥いたし、僕でなければどちらかが力尽きていた。それは或いは比喩ではなく、といった具合ですらあっただろう。しかし相対したのなら酸いも甘いもない。これまで積み上げてきた総てで当たらねばならなかったから、僕自身が言葉の大切さを再認するのにこれ以上の出来事はなかった。

人間は容易く変わることは出来ない。はるか昔に投げかけられた棘が未だに心臓に刺さろうとしている。幾年もかけ続けてきた呪いが、命を棄却しようとしている。それらはファンタジーの魔法のようにワンフレーズでなくなったりしない。1行では無理なら10万行ならどうか、1日では無理なら10万行ならどうかというのは誰かのうたの一節だがまさにそうだ。確かに変えられるものはきっとあるし、何時か命が自由を取り戻すまで、声をあげること、文字を紡ぐことをやめようという気など起るはずも無い。

創作者という生き物は、手掛けた作品が誰かの一時の慰めにでもなれば小躍りでもしようかというくらいのもので、ましてささやかな人生の啓示になるならば最上だ。その上に誰かを支える旗となったのなら、正に冥利に尽きるというもの。普通はそんなもの受けきれないのかもしれないが、僕はどうやら普通ではないようなので。七十億の中から、一億数千の中から、ひとりとひとりが出会ったのはそれなりの故あっての事だろうとは思っている。

 

そして求められれば張り切ってしまうのが人間の性というやつだ。書くこと、読むこと、話すこと。あれだけ剥き出しの好意をぶつけられたのだし、何よりやってやると言葉にしてしまったし、やらないわけには行かない。機材を整えたり、おっかなびっくりテストをしてみたり、準備は着々と整えられいる。動いていかなければいけない。

 

書いたな。どうしようもなく考え込んでしまう人間であるから、考えなくてはいけない事項はどうしても長くなってしまう。こんな風に好き勝手やってるよなという1年だった。

 

これは蛇足の文章。このまま何者でもなければずっと平穏だ。そのまま布団とでも添い遂げて終わりになればいい。でも、それじゃだめだ。それは邪な感情だ。遠くの神社からずっと鐘の音が聞こえるから、これはじきにうち払われる感情だ。そう信じているから、きっとそうなる。

なんかいいこと書きたかったのでそんな感じで。



今年一年ありがとうございました。こんな文章をこんなところまで読んで、もしかしたら好くれていることが何よりの支えになります。

来年は週1ぐらいの頻度で日記も更新してやりたいですね。行ってしまう前に星などつけてもらえるとやったーとなるので是非とも。

 

それでは、来年もどこかで。